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楽曲解説「王孫不帰」その3 - 音楽篇

王孫不帰

楽曲解説のコーナーは、VV5thの演奏曲目を知ってもらい、当日の演奏をより楽しんでもらうための企画です!

今回は三善晃作曲の「王孫不帰」を取り扱います。これまで、詩の解釈を中心に、2回にわたって王孫不帰を解説してまいりました。今回はいよいよ、三善晃が産み出した日本の男声合唱史に残る名曲に、音楽的な視点から切り込んでいきたいと思います。

是非今までの記事をお読みになった上で、本記事をお読みいただければと思います!

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「王孫不帰」の音楽的な特徴

「王孫不帰」は、その使われている技法や音楽的なテーマなどから、非常に演奏難易度が高く、また解釈も難解な作品として知られています。今回はその「王孫不帰」を、可能な限り噛み砕いて解説することを目指します。

王孫不帰を音楽的に見ると、以下の5点の特徴を持っていると言えます。

  1. 能楽のような節回し【ヘテロフォニー】
  2. 手をかえ品をかえた動機(モチーフ)の、様々な声部での展開【ポリフォニー】
  3. 「きりはたり ちょう ていとう」、日本独特な子音を活かした曲の持続性
  4. 能楽の特徴である「間」、太鼓や能管などの「囃子」を表すsoliや打楽器
  5. 打楽器的な書法や、合唱と独立した役割を持つピアノ

王孫不帰といえば、しばしば「能楽」の節回しということが特徴であると言われます。またその全体の構成も、日本の伝統芸能に見られる「序破急」の形を踏襲していると見ることができます。

そもそも、三善晃はなぜ能の書法をこの作品に取り入れたのでしょうか。

「能楽」というのは、現代において若者がバンドのライブで陶酔する姿が見られるように、日常から離れ非日常の世界に浸ることの出来る芸能でありました。人々は非日常の世界に触れることで、人間の存在をつかみ直し、社会を支えている根源的な力を認識し、生きるエネルギーを生み出していた、とも言えるでしょう。

「能楽」は、いわば観客に非日常世界へいざなうことをダイレクトに、意識的に追求したものなのです。

日常

さて、話を王孫不帰に戻します。三善晃は、王孫不帰について、次のように述べています。

「幼少時から家で耳にしていながらなじめなかった謡いの拍節や律法が、この時は三好達治の詩句にふさわしいものに思われ、声部の横の動向に採り入れた。そのポリフォニーは縦の関係では自然にクラスターを造るが、それも謡いのコロスが引き出している。」

「謡い」とは、能楽における声楽部分を指します。王孫不帰における能楽の要素に焦点をあてると、父母が木を切り機を織る【日常】と、帰らぬ息子を思う不安や、その死の香りから発せられる【非日常】が、この曲にはっきりとハレーションをおこしていると言えるでしょう。

そして、その不安や死の気配を最もよく表しているのが、合唱を切り裂くように歌われるsoli「きり」やピアノです。増幅していく不安を始めとする人の感情とは、謂わば【非日常であり日常】と捉えることができ、特にピアノはその2つをつなぐ役割も果たしていると考えられます。

王孫不帰を音楽的に見ていくと、このような「 日常と非日常の対比」を、作品の随所に見てとることができるのです。

第一楽章 - ヘテロフォニーとクラスター

さて、それでは第一楽章から順を追って見ていきましょう。

第一楽章は、「序破急」の「」にあたります。「序」は拍感のない低速度で演奏が行われるとされており、特に冒頭部などはこの形式が強く現れています。

はじめに合唱が「かげろうもゆる砂の上に」と歌いますが、各声部が少しずつずれた音程を重ねながら歌っています。このずれる様というのは「ヘテロフォニー」と呼ばれる手法です。

王孫不帰譜例1
▲譜例1:第一楽章冒頭

ヘテロフォニーとは、多声性を表す音楽用語であり、複数の声部が基本的には同一の旋律を、アレンジしながら同時に進行するものを指します。能楽に限らず、日本の伝統音楽の中にはこの手法がしばしば見受けられます。

また、「かげろうもゆる」とは一息に歌われず、様々な装飾がつけられ、その旋律が非常に長く引き延ばされています。特にこのような装飾を「メリスマ」といいます。

ここで大切なのはE(ミ)の音です。譜例1を参照しますと、かげろうの「げ」の部分で一瞬Bass群がFとD♯(ファとレ♯)に音が乖離していますが、すぐに元のEの音に戻ります。この収束から、「かげろ【う】」の部分ではミとファのクラスター音になっています。

(クラスターに関しては、すでに別の楽曲解説にて扱っておりますので、そちらを参照ください。該当ページはこちら

先程の譜例1の通り、縦のクラスターが能楽における声楽部分を示す「謡い」の特徴をよく捉えています。またこのクラスターにより、陽炎(蜻蛉)のたゆたう様子が非日常の象徴として現れています。

この冒頭部から、次第にクラスターが増殖していきますが、その緊張が高まる度にsoliが「きり」と合唱を切り裂くように入り、そして「はたり」の言葉により全ての音が消失します。その後、何事もなかったかのように「ちょう」というsoloが響き渡ります。心の悲しみが増殖していく非日常から、機を織る音で日常に還る、という様子が効果的に表現されています。

王孫不帰譜例2
▲譜例1:練習番号2-3

その後、ヘテロフォニーは影を潜め次第に「ポリフォニー」に移行していきます。ポリフォニーとは、複数の独立した声部からなる音楽のことを指し、ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味します。

ここでは、「海は日ごとに青けれど」という言葉が歌われます。海の向こうへ旅立った息子を暗示する合唱は非日常を表し、日常を表す「きりはたり」のsoli、そしてそれらを内包するピアノが絡み合っていきます。

しかし、木柾や鈴に催促されて「家出息子」の言葉が現れることで、父母の悲しみが増幅されていきます。ピアノがその心情を奏法の激しさで訴え、やがて「影もなし」と斉唱されます。

激しい感情の昂りの後、一転して静寂が訪れます。静寂の中の残響から、どこからともなく、しかし力強く「丁東」と何かを打つ音が聞こえ、ピアノも同じリズムで打楽器的に演奏されていきます。悲しみの心情を表すピアノと日常とがリンクしているのだと考えられます。

ここから、能管の「ヒシギ」のようなsoliがあらわれます。ヒシギとは、能管の最高音域の鋭い緊張した音であり、早笛や狂言次第の冒頭、一部の舞事の終わりに演奏されるものです。

合唱は、これまでのヘテロフォニー、ポリフォニーと異なり、和声感のある重厚な音色が展開されます。ピアノが激しく心を打つように弾かれる様子と非常に対比的であり、人間の生死、戦乱でさえ、雄大な自然に比べれば些末な事象である、という意味を持つ詩を効果的に表しています。

王孫不帰譜例3
▲譜例3:練習番号10

soliや合唱が「ていとう」というかけ声を発しながら曲が進んでいく構成は、能楽が佳境に入っていく様にとてもよく似ています。しかしその中にも、「きりはたり」と日常を示す部分が現れています。

特筆すべきは、これだけ様々な処方が展開されているにも関わらず、合唱はE(ミ)の音の気配を感じざるを得ない曲構成となっていることです。譜例4の中でに現れるsoliの「さんが【の】」、Ten.の「ごと【く】」、Bar.の下パートの「ごと【く】」のレD♭や、Bas.の「と【う】」の最後に現れるDとFは、全てEにまとわりついていることがわかります。

いくら日常に打ち込んでも忘れられない父母の悲しみを、E音に閉じ込めていると推測することができます。

王孫不帰譜例4
▲譜例4:練習番号11

その後、「住の江の 住の江の」と歌われる箇所で、不安がピークに達します。住の江にて息子の帰りを待つということは、その感情に支配されそれ以外が考えられなくなる、ということを示すのでしょう。この不安のピークが、fffによる斉唱という形に辿り着くのです。