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楽曲解説"De Profundis" - 前篇

De Profundis

楽曲解説のコーナーは、VV5thの演奏曲目を知ってもらい、当日の演奏をより楽しんでもらうための企画です!

今回はエストニアの作曲家、A. ペルト作曲の"De Profundis"「深淵より」について扱います。ペルトの代名詞と言っても過言ではない「ティンティナブリ様式」が存分に味わえる本作品。様々な角度からこの作品を見ることで、ペルトが辿り着いた祈りの境地に迫ってみたいと思います。

"De Profundis"について

作曲:Arvo Pärt(アルヴォ・ペルト)
詩:詩編130番
編成:4声(Tenore I、 II/ Basso I、II)+打楽器、オルガン

1980年作曲。ドイツの合唱団、ヴォーカルアンサンブル・カッセルによって1981年に初演。ペルトの楽曲の最大の特徴である「ティンティナブリ様式(Tintinnabuli)」によって書かれた男声合唱作品です。

ティンティナブリ(小さな鐘)様式とは、ペルトが確立した、単純な三和音をまるで一つの鐘のように鳴らす音楽の手法です。彼が宗教的な概念を音楽に見出し、様々な作曲技法を研究したことによって到達した、極めて純度の高い独自の調性感を生み出す手法であるとも言えるでしょう。

"De Profundis"もその例に漏れず、純粋で神秘的な和音が展開される、ティンティナブリ様式に特有の響きに溢れた作品です。

本記事の前篇では、ティンティナブリ様式や"De Profundis"に至るまでにペルトが歩んだ道のりを辿り、また彼がテキストとして選んだ詩篇130番について解説します。後篇では、ティンティナブリ様式を中心により詳細な解説を行います。

Arvo Pärtの来歴

ペルトの来歴、および彼が発表している楽曲は、1968年から1976年までの8年間の「沈黙」を境に、前期と後期に分けることができます。「沈黙」と呼ばれるこの8年間の間、彼は主要な芸術活動を休止し、楽曲を極僅かしか発表していません。

前期 〜「沈黙」以前〜

Arvo Pärt
▲Arvo Pärt1

ペルトは、1935年、バルト海に面する3つの小国、いわゆる「バルト三国」の1つであるエストニアに生まれました。

彼がまだ子供であった1940年、第二次世界大戦の真っただ中に、エストニアはソヴィエト連邦に占領され、社会主義体制へと組み込まれます。社会主義体制の下、西洋の現代音楽は「形式主義2」として排斥され、ペルトも非合法なテープ等によって音楽を勉強せざるを得ませんでした。

1963年、27歳でタリン音楽院を卒業した彼は、放送局に音響技師として勤めながら、作曲家としてのキャリアをスタートさせます。

この頃の彼の作品は、ショスタコーヴィチらロシアの現代音楽の作曲家の影響を受け、十二音技法3等の西側諸国(資本主義勢力陣営)で用いられている作曲技術を用いた非常に前衛的なものが多く、社会主義体制から大きな反発を受けていました。

例えば、彼が音楽院在学中の1960年に発表したオーケストラ向けの楽曲”Nekrolog”は、エストニアで初めて十二音技法を用いて作曲された作品であると言われています。その後も彼は前衛的な作品を発表し続けていましたが、1968年に作曲した混声合唱曲”Credo”が政府の命令で演奏禁止になったことに伴い、8年間の「沈黙」に入ることになります。

エストニア周辺地図
▲「バルト三国」のうち、最も北に位置するのがエストニアである

ヨーロッパ全域の地図を見る

後期 ~「沈黙」以降、そしてティンティナブリへ~

「沈黙」と呼ばれた期間の間、彼は東方正教会への入信を行い宗教的関心を深めると共に、グレゴリオ聖歌や、マショー、オケゲム、ジョスカンらの作曲家に代表される中世・ルネサンス音楽の研究に没頭していきました。

8年間の「沈黙」の後、1976年に書かれたピアノ曲”Für Alina”によって、再び彼は作曲家としての活動を開始します。そこで用いられている手法は、単純な三和音を用いた極端に簡素な作曲法であり、「沈黙」以前の実験的な手法とは大きく異なるものでした。

単純な旋律の繰り返しと三和音をまるで一つの鐘のように鳴らすその手法は、弦楽オーケストラとピアノのための”Tabula rasa”等の翌77年に書かれた作品群によって確立されました。ペルト自身により、その手法は「ティンティナブリ(小さな鐘)様式」と名付けられたのです。

鐘
▲彼自身がその技法を「小さな鐘」と名付けた理由は、後篇にて扱います

1980年にドイツに移り住んだ後も、ペルトはティンティナブリ様式を用い、宗教的な神秘性を籠めた作品を多く作曲し続けています。"De Profundis"も「沈黙」以後に発表された作品であり、ティンティナブリ様式が用いられている作品群の1つです。

世界的な評価

今年2014年は、ペルトの世界的に高い評価が改めて確認された年であると言えるでしょう。例えば米国において、第56回グラミー賞で彼の合唱曲を集めたCDが合唱部門において賞を得ました4。また日本においても、高松宮殿下記念世界文化賞の音楽部門にペルトが選ばれています5

ペルトの楽曲の多くは、決して派手で大掛かりなものではありません。しかしながら、彼のとてもシンプルな楽曲は世界的な共感を得ています。

詩篇130番「深淵より」とは?

この楽曲には「詩篇(Psalm)」と呼ばれる文書が用いられています。詩篇に関する解説は"Benedicamus Domino"の楽曲解説記事に掲載させていただきましたので、そちらをご参考いただければと思います。

楽曲解説"Benedicamus Domino"の該当箇所を読む

ラテン語

De profundis clamavi, ad te Domine;

Domine, exaudi vocem meam.
Fiant aures tuae intendentes
in vocem deprecationis meae.

Si iniquitates observaveris, Domine,
Domine, quis sustinebit?

Quia apud te propitiatio est;
et propter legem tuam sustinui te, Domine.
Sustinuit anima mea in verbo eius:

Speravit anima mea in Domino.

A custodia matutina usque ad noctem,
speret Israel in Domino;

Quia apud Dominum misericordia,
et copiosa apud eum redemptio.

Et ipse redimet Israel
ex omnibus iniquitatibus eius.
聖書

日本語

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。
イスラエル

「聖書 新共同訳」詩篇130編1節から8節

「深淵より」の持つ意味

この詩篇は、深い淵、自らの愚かしさや罪によって絶望の底にいる者が、神に赦しを請うとともに、イスラエルの民に未来への希望を宣言するものとなっています。

自らの愚かさにまみれ、神から最も遠いところにいるにも関わらずひたすら祈り続けるその姿勢に、エストニアの体制に対する絶望という深い苦しみの中から、宗教的理念や古楽に光を見出したペルトは強く共感したのではないでしょうか。

タリン市街
▲エストニアの首都、タリン。その歴史地区はユネスコ世界遺産に登録されている

この詩篇の内容は、6節(~見張りが朝を待つにもまして。)までの部分と7節からの部分(イスラエルよ~)の2つに分けることができます。6節までの内容は個人が神に対して悔い改め待ち望むもの、7節以降は個人が集団(キリスト教の教団)に対して呼びかけるものとなっています。

7節以降の部分については、元々あった詩に対して後に加えられた内容とする見解もあるようです。一方で、神を待ち望む姿勢を明らかにした後、詩人や預言者がその姿勢を人々に宣言した、と見る考え方もあります。

このような詩篇に対してペルトはいかなる音楽を付けたのか。後篇では、ティンティナブリ様式についてより詳細に見ていく形で、楽曲の音楽性について解説していきたいと思います。

  1. ^ 画像の引用元はこちら(外部リンク)
  2. ^ 旧ソ連において、西洋諸国を中心に栄えていたの実験的な前衛音楽などが、シンプルさや写実性に欠ける「形式に傾倒した作品」という意味で「形式主義」と呼ばれ、非難の対象となった
  3. ^ 1オクターブの間に含まれる12音全ての音を均等に使い、調性からの脱却を図った作曲技法
  4. ^ グラミー賞ウェブサイト(外部リンク)
  5. ^ 高松宮殿下記念世界文化賞ウェブサイト(外部リンク)