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楽曲解説「王孫不帰」その2 - 言葉篇

王孫不帰

詩の構造

王孫不帰の詩の構造は極めて論理的です。これまでの語句解説を踏まえて順に追っていきましょう。

冒頭、山と海の対比

まず、楚辞の引用とかげろふという語句で、不帰の人々の儚い命を暗示させています。昆虫の蜉蝣も気象現象の陽炎も、どちらも儚い物の例えでよく使われる語です。草履がどこにあるのか、という点は細かくは書いてありませんが、その持ち主は恐らくもういないということでしょう。

次に視点が海、山などの大きな自然に移ります。海は多くの兵士達が戦争へと旅立っていった場所であり、彼らにとっては此岸と彼岸の境界線でした。山は海との対比、及び杜甫の引用に引きずられて登場します。

ガダルカナル

海の向こうで起きて、終戦後はそのまま残された山(国土)。そして海の側に属する息子たち、山の側に属する父母という、あまり自明でない対立構造も見えてくるでしょう。

時間の経過

父母は嘆き悲しみながら息子の帰りを待ち望みますが、歳月が過ぎゆくばかりです。ここから三連に渡って時間の経過が表されます。「住の江の」以降は「待つ」、及び前述の土佐日記の歌の情景が引き出されています。鳥の鳴き声は杜甫の引用を踏まえたものでしょう。

鷗は冬、若菜は新年、若草は晩春を表す季語であることから、直接的でないながらも過ぎ去ってしまった年月を暗示しています。

鳶

主題「王孫はつひに帰らず」

海と山、父母と息子、滅んでしまった国と変わらない自然、老いる人間と自然。多くの対比を経て、「王孫はつひに帰らず」という結論に到達します。

老いてしまった翁(おきな)と媼(おうな)は何事もなく日々を過ごし、戦争も遠い昔のことになってしまいましたが(ここにも過去と現在の対比が表れています)、死んだ息子たちや待ち続けた父母の”うらみ”―ここでは悲しみや嘆きといった意味でしょうか―はそのままであり、後には物悲しい風鈴と機織りの音がするばかり。

新しい日々を迎える度、あるいは日常のふとした瞬間に、不帰の息子たちが想い起こされる、といったところでこの詩は終わります。

朝日

「王孫不帰」の原詩をもう一度読む

詩から見る楽曲の構成

三善晃は全ての楽章をアタッカで演奏するという方式で付曲しています。テキストは多少前後しますが「住の江の 住の江の 太郎冠者こそ本意なけれ」までが第一楽章、「住の江の 住の江の 太郎冠者こそ本意なけれ」から「王孫は つひに帰らず」までが第二楽章、残りの部分が第三楽章となっています。

今回は詩の構造を踏まえて、三善晃がどのように作曲したかを見ていきます。

第一楽章

概ね各連毎に大きく様子が変わっており、前述したように直前の連に対立する形で次々と視点が移っていく構造をよく表しています。特に「海は日ごとに」の歌いだしで各声部が独立に蠢いているさまと、「國は滅びて」の歌いだしで各声部が揃い生み出すホモフォニックな響きの対比は見事です。

「住の江の」で音楽的にクライマックスを迎えます。その後、呟くように、しかし強く「太郎冠者こそ本意なけれ」と歌われ静かに終わります。

山河

第二楽章

ピアノの幽冥な独奏に始まり、各声部がばらばらに旋律を歌い継いでいきます。この部分に当てられている詩は、前述した通り時間経過を表している部分であり、些か単純な解釈ではありますが、幾年もの月日の経過を効果的に表していると言えるでしょう。

やがてリズムも詩もバラバラだった各声部は結末に向けて収斂し、「王孫はつひに帰らず」の部分を一斉に歌います。その後各声部やSoliによってこの詩がバラバラに発せられ、どうにもならない事実を確かめていくようにして第三楽章へ移行します。

第三楽章

第三楽章は能楽の発声、及び掛け声を十二分に活かしながら始まります。冒頭で「山に入り木を樵る翁」と朗唱された後、掛け声のみの部分などを経て、第一楽章「國は滅びて」の部分を彷彿とさせる合唱部分へと加速しながら突入していきます。

木を樵る

ここで特筆すべきは、時系列を無視して第一楽章、第二楽章のテキストが再び歌われる点です。「うら若草は野に萌ゆれ」「春ごとに」「若菜は萌ゆれ」「海は日ごとに青けれど」「國は滅びて山河の存する如く」。第二楽章で長い時間が経過した後の視点から描いていると考えると、この構成は非常に合点の行くものになります。

余談ですが、第一楽章で歌われる「父母は在して待てど」には「ちちはは」と読みが当てられているのに対し、第三楽章では「ふぼ」と読まれています。こうした違いも、時間経過後の視点の違いを表す一つの要素と言えるかもしれません。

このセクションの後は原文の順序通り「こともなく明けて暮る」から再開し、「浦囘」で音量的な頂点を迎えた後、静かに収束していきます。


楽譜

三好達治は抒情性の詩人と言われていますが、今回見てきたようにその作品の中にはきちんと構築性を持たせていました。三善晃はそれら両方を十分に活かす形で、「王孫不帰」という詩に音楽を吹き込みました。

この解説で皆さんにもその一端をお見せ出来たならば幸いです。これらの詩、その構造と情感がどのように音になるかは、是非ご自身の耳で確かめて頂けたらと思います。

参考文献
小川和佑『増補改訂版 三好達治研究』教育出版センター、1976年
石原八束『駱駝の瘤にまたがって 三好達治伝』新潮社、1987年
中村真一郎編『近代の詩人 九 三好達治』潮出版社、1992年
原田香織『現代芸術としての能』世界思想社、2014年

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文責:黒木優大